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「お帰り、佐伯。早かったんだな」
 急く思いで辿りついた自宅では、リビングの柔らかなシーリングライトに照らされ、ソファに掛けた御堂がゆったりと本を読んでいた。『元首』と名が付けられた経済紙から目を上げ微笑む姿に安堵がこみ上げる。
「ええ。貴方が寂しがっていると思って」
「何を言っているんだ」
 かっちりと結んでいた襟元を寛げながら笑うと、一瞬目を見張った御堂が、眦に朱を上らせて目を逸らす。恐らく、ブラックスーツに身を包んだ見慣れぬ克哉の姿に見惚れたのだろう。そんな些細な事実にも喜びを感じる。己は常に御堂という魅力的な恋人に惑わされているのだ。御堂もそうでなくては困る。
「見惚(みと)れました?」
「……っ、そんな訳、ないだろう。早く着替えてきたまえ。……夕食は?」
 らしくもなく早口で言い切って、ちらりと背後のキッチンを見やる。
 部屋に入った時から、温かな食事の香りが漂っているのに気付いていた。恐らくは、ポトフだろうか。披露宴で濃い肉料理を散々味わった克哉が、さっぱりした味を欲すると予想しての気遣いが嬉しい。キッチンの脇に、サラダボウルと地下のデリカで調達したであろうバゲットも見える。休日のたびに、克哉が好んで食べる一品だ。
「頂きますよ。わざわざ、作ってくれたのか? せっかくの休みなんだ。食べに出ても良かったのに」
「時間だけはあったからな。邪魔する相手がいないから」
「今日、何をしていたんですか?」
「実に、有意義な時間を過ごさせてもらった。ファンドの動向を見て、料理をして……ああ、普段誰かさんに邪魔されて進まない読書も、存分に楽しませてもらった」
「…捗りました?」
「当然だ」
 目を雑誌に落とす振りをしながらも、その首筋が真っ赤に染まっている。
 このまま抱き竦めて、ソファに押し倒したい欲求が急速に高まる。腹の底から御堂に対する愛おしさと渇望が込み上げてきて止まらない。
 着替えもそのままに御堂の掛けるソファに腰を下ろすと、手元のページを覗き込んだ。
「御堂さん」
「なんだ」
 頑なに顔を背ける耳朶に口づけを落とせば、御堂の肩が跳ね上がった。「んっ」と甘い声を漏らした唇を噛んで、こちらを睨む。うっすらと涙を孕んだ瞳に、ぞくぞくと欲望が背筋を駆け上がる。
「でも、そのページ、朝のまんまですよ……?」
「……!」
 何か反論しようと開き掛けた口を、キスで塞いだ。
 祝いの酒を散々流しこんで来た克哉の唇が、穏やかな休日を過ごしていた筈の御堂を緩やかに犯していく。突然のことに抗う御堂を抱きすくめてあやすように宥め、その口中をくまなく探る。弱い部分を散々になぞってやれば徐々に抵抗は弱まり、やがてすとん、と体の力を抜いた。
 そこから先は、ただ、互いの唇に夢中になる。
「ん……んう……ん、ん……克、哉……あ……っん」
「……ん……孝典」
 半日と少し離れていただけなのに、欲しくて堪らない甘い唇。柔らかな舌を絡め合い、時折強く吸い上げれば、御堂の背が震える。キスの好きな御堂が、夢中になって克哉の舌を求める瞬間が何よりも好きだ。上顎と歯列の間を丹念になぞってやれば、恋人は満足げにため息を漏らす。
「ふ……っ。酒臭い、ぞ」
「貴方の好きなワインじゃありませんか」
「……私と一緒に飲んだ訳じゃない」
「やっぱり、寂しかったんじゃないですか」
 伺うように瞳を覗き込めば、今度こそ御堂は否定しなかった。
「私も……驚いた」
 ぽつりと落とされた呟きに首を傾げ、先を促す仕草で片眉を上げる。
 一瞬だけ克哉と目を合わせた御堂は、ためらいがちに俯くと、克哉の着る上質な生地を掴んだ。きゅ、と柔らかな音を立てて、生地が軋む。
「君がいない休日というのは、落ち着かないものだな」
 御堂の中で、克哉がそれほど自然な存在になっていることに改めて驚きと喜びが湧き上がる。苦しい、と抗議する御堂の腕もそのままに、きつく抱き締めたまま音を立ててソファに崩れ込んだ。
「さ、佐伯っ! 皺になるっ!!」
「……貴方の心配はそこですか?」
「せっかく似合っているのだから……スーツは大事にしたまえ……んんっ」
 可愛らしくも憎らしい唇を無理やり塞ぐ。克哉の背を叩く力が弱まる頃には、頬を朱に染め上げ、潤んだ瞳の恋人が出来上がる。浅い呼吸も愛おしい。すべて自分のものにしてしまいたい。
「だったら、脱げばいいんでしょう?」
「……そのまま放り投げたら、確実に皺になるだろう」
「こんなに美味しそうな恋人を前にしたら、我慢なんて出来る訳がない」
「馬鹿……明日、慌てても知らないからな」
「なるほど。俺のこと『明日』まで離してくれないつもりなんですね。御堂さんは」
 言葉尻を捕らえるのは悪い癖だと、常日頃御堂に言われている。
 しかし、自分の些細な一言に反応し眦を釣り上げる御堂は魅力的で堪らない。そう。今も。
 克哉の言葉に些か気分を害したように顔を逸らした御堂は、それでもきゅ、と唇を噛みしめた後、瞳を見つめ返してきた。その瞳に宿る真摯な色に、克哉の深い部分がきしり、と鳴る。
「『明日』だけじゃない。ずっとだ」
「御堂……」
「私は、今後もずっと君を離すつもりはないからな。覚えておけ、佐伯」
「……ああ」
 告げられた思いに、躊躇わず御堂の手を取って口づける。
 左手の薬指を選んだ意味は、聡い御堂には直ぐに伝わったようだ。深い色の瞳に恋情の色を上らせて、恋人は微笑む。
「俺もだ。御堂。貴方を手放すつもりはない」
 唇が触れ合う距離で囁き合う。
 睦言がふたりの間で甘く溶けていく。
「……誓いの言葉が欲しいか?」
 揶揄かうような克哉の台詞に、人一倍生真面目でプライドの高い恋人は否、とは言わなかった。ただ黙って言葉を待つ御堂の揺るぎない瞳は、出会ったその日に恋に落ちた、克哉の『運命』そのものだった。
「俺には、一生、貴方だけだ」
「後悔しないのか? 佐伯」
「貴方こそ……御堂」
 ふたりだけの秘めた宣誓に、ちゅ、ちゅ、という互いの唇を喰(は)む音が混じる。御堂の上唇を啄む克哉の下唇を、御堂が甘噛みする。焦がれる互いの体が、我慢出来なくなるまで。唇と指先だけの戯れに、欲張りな恋人同士が耐え切れなくなるまで。
「百年だって君と居る覚悟が出来るのは、私くらいだ」
「それは、ありがたい。……愛してますよ。孝典さん」
 涙で潤んだ視線を上げ、震える息の合間で、御堂は克哉の髪に手を差し入れた。御堂の指が愛おしげに克哉の耳朶を捕らえたと同時、確かに生命の躍動を感じる、美しい首筋に咬みついていた。

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