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 IDをスキャンすると、軽快な電子音と共にロックの外れる音がした。
 今日からは正式に「ここ」が自分の居場所になるのだと思えば、いささか奇妙な感があるのは否めない。「MGNジャパン」――己がふさわしいかどうかは別として、戦場(いくさば)としては悪くない、と克哉はそうと知られように唇を歪めた。

「おはようございます。佐伯さん。大隈専務からお話は伺っておりますので、こちらでお待ちになって下さい」
 見知った顔の受付嬢達が、にこやかにほほ笑む。キクチの営業マン時代にも、何度も訪れたエントランスだ。いつもここに来るたび、二人並んだ彼女達が、競って自分に声を掛けようとしていたのに、当然克哉は気付いていた。
 すみずみまで整えられた髪と、行き届いたメイク。さすがに大企業の「顔」となるだけあって、一般的に見ても相当に美しいと言えるだろう。しかしこのMGNで、比するもない存在に出会ってしまった克哉にとって、彼女達の華やかさもまったく心惹かれるものでは無かった。
 ふと克哉の胸に、このMGNのどこか……いや、言わずとしれた企画開発部の執務室で、苦虫を噛み潰したような顔のまま眉間に皺を寄せているであろう御堂の顔が思い浮かぶ。その屈辱的な顔を想像しただけで、克哉の内に湧き上がるものがある。
 俺もつくづく、悪趣味な男だ……と思いながらも、口の端に笑みが浮かぶのは止められない。どのような顔をして御堂が自分と対峙するのかと思えば、胸が湧き立つようだ。
「ありがとう。やはり気持ちが違うのか、どうにも、落ち着かなくて」
「まあ、そんなふうにはとても。……今日のスーツも、とてもお似合いですよ」
「見た目だけでも、”デキる男”にしようかと」
「そんな。佐伯さんには必要ないでしょう?」
 軽くおどけて見せると、受付嬢達は嬉しそうにクスクスと笑いをこぼした。
 ゆったりとした立ち姿で受付に立つ克哉を、MGNの社員たちが横目で伺っていく。中には『あれが、キクチの……』と噂話をしながら通り過ぎる者たちもいる。
 まさに「異例」とも言うべき克哉の採用には、様々な憶測が飛び交っているだろう。中には、えげつない話も出てはいるのだろうが、さして気にすべきものでもない。実力で黙らせれば良いだけだ。
「佐伯さん。お待たせいたしました」
 掛けられた声に視線を流すと、ホール脇にあるエレベーターの前に、大隈付きの秘書が控えるのが見えた。長身の美人で、頭も良い。美しくカールのかかった髪を高く結い上げているのも、色気を感じさせる。歳の頃は30代の始めだろうか。
 年齢に見合った知性と思慮深さがあり、どこから見ても魅力的な輝きを持つ存在だろう。しかし当然と言うべきか、御堂には劣る。
「ああ。わざわざお出迎え頂き、申し訳ありません。後ほど、こちらからご挨拶に伺おうと思っていたのですが」
 恐縮する振りを見せながら歩み寄り、柔らな笑みを浮かべて見せる。
 営業にも役立つ計算された微笑みの内が、どれほどその外側とかけ離れたものであるのか、このMGNで知っているのは恐らく御堂だけだろう。――克哉自身を除けば。
 ここがMGNのせいか、今日はやけに御堂の顔が思い浮かぶ。例のプレゼン以来顔を見てはいないが、今日からは誰憚ることなく、御堂に会いに行くことが出来るのだ。さしもの御堂も、理由なしに面会を拒むことも出来まい。周囲に怪しまれるような行為を避けたいのは、自分よりむしろ御堂の筈だ……とそこまで考えて、己に向けられる御堂の厳しい視線を思い出し、腹の内が震えるような楽しさを感じる。
 一方、完璧なビジネスマンとして一分の隙も無い笑顔を見せた克哉に、さしもの秘書も、薄っすらと頬を赤らめた。意味もなくタイトスカートの皺を直す仕草を見せたあとで、乱れのない髪を整える。その仕草がどれほど男に対してのアピールになるのかは、もちろん計算ずくだ。
 

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