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  歩き出したふたりの後ろに、受付から強い視線が走るのを互いに感じているだろう。しかし片や嫉妬と羨望を一身に浴びる「秘書室」の所属として、片や御堂以外の人間に興味を示さない「鬼畜」の業を持つ人間として、ふたりはその視線を綺麗さっぱり無視していた。
「いえ。大隈専務がぜひにと申されて。早朝から佐伯さんの出社をお待ちになっておられましたわ」
「MGNの重役方は、そんなに早いご出勤なんですか?」
 「重役出勤」などという言葉は、MGNには存在しないのだろう。そんな馬鹿な言葉を頭に浮かばせながら、秘書が呼んだエレベーターに乗り込む。MGNはフレックス制を持つ会社ではあるが、己の仕事が時間に制約されるとは、到底克哉も思っていない。
 むしろ、仕事に対して異常なまでにモチベーションの高い克哉であるから、そもそも「勤務時間」などという概念は存在しなかった。キクチに居た時もそうであったし、プロトファイバーのプロジェクトが継続中である今は、なおさら帰宅時間など気にもしたくなかった。
「そうですね。本社と時差があることもあり、みなさま、勤務時間などあって無きがごとしですわ」
「ああ。なるほど。では、御堂部長なども、さぞかし早くに出勤されていらっしゃるのでしょうね」
 さり気なく混じらせた御堂の名に、秘書は訝しむこと無く頷いた。
 プロトファイバーのプロジェクトが始まってからというもの、御堂と佐伯の働きは社内でも充分話題になっているらしかった。自分と御堂が激しく遣り合う場面も多々目撃されてはいるが、それは克哉自身の思わぬ評価に繋がっているらしい。
 社内でも切れ者と評される御堂孝典と、対等に渡り合える人物。それが子会社であるキクチの社員だったのだから、MGNの面々が耳目をそばだてるのも、無理からぬ話ではある。
「ええ。御堂部長などは、いつご帰宅されていらっしゃるのかと思うほどですわ。あまり、ご無理をなさらなければ宜しいのですけれど」
 御堂の名を口にする女性秘書の頬が、僅かに高揚しているのが克哉には見て取れた。
 あれほどの容姿とカリスマを持つ男だ。女にもてない筈は無いとは思っていた。当然御堂に想いを寄せる者も多いのだろうが、残念だったな――。
 胸の内で、歪(いびつ)に笑う。
 あいつは、俺に抱かれてるんだよ。あの綺麗で尊大な顔の下に、あんなにも浅ましくいやらしい表情が隠れているなどと、誰が想像するだろうか。
 自宅のリビングで、キッチンで、このMGNの会議室で。理性をギリギリまで保とうとして出来ずに堕ちていく御堂に、どれほど愉悦を感じただろうか。それをこの取り澄ました顔の秘書に逐一語ってやれば、彼女はどんな顔をするだろう。
 その誘惑に一瞬駆られた克哉ではあったが、御堂のあの顔を知るのは自分だけで良い、とも思う。あの男がどこまで堕ちるのかも見ものだ。
「そうですか。さすがですね、御堂部長は。自分も、見習う必要がありそうだ」
「まあ。佐伯さんも、仕事の鬼とお聞きしましたよ」
「鬼、とは酷いな。女性の皆さんには嫌われてしまいそうだ」
 軽く肩を竦めると、秘書は小さく目を見開く。そのまま紅い唇を器用に上げると、僅かに媚びるような色を瞳に乗せる。
「まさか。佐伯さんを嫌う女性など、居ませんでしょう?」
 上昇するスピードが緩まった、と思うと同時に、小さな箱は大隈の待つ高層階に到着した。エレベーターの中から眺める景色は、壮観だ。独特の浮遊感を臓腑に感じながら、克哉は美しき秘書に笑って見せた。
「そう仰って下さるのであれば、幸いです。では、自分が食事にお誘いした際には、前向きなお返事が頂けるものと思って宜しいですね」
 片眉を上げて見せる克哉に、彼女はエレベーターの開ボタンを押した姿勢のまま、真っ赤になっていた。おや、と思ったのは一瞬で、小さな箱から歩き始めた克哉の目は、すでに大隈の執務室にしか向けられていなかった。
  


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